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インドネシア雑記帳

ブログ「インドネシア人の本音」別館-インドネシア・メディア翻訳+管理人のアッチョンブリケ(備忘録)

カテゴリ:スカルノ

ブン・カルノことスカルノはインドネシアが日本軍に占領された時、なぜ対日協力に踏み切ったのか。その経緯とはどのようなものだったのか。1942年初頭、日本軍がインドネシアへ進駐した時、ブン・カルノはスマトラにいた。オランダに流刑に処されたスカルノはエンデに始まり、フローレス、ベンクルと流刑地を転々とした。スカルノは当時、妻インギット・ガルナシとともに13年間にわたってジャワ島外へ追放されていた。 ...

アジア・アフリカ地域の諸民族は、ともにヨーロッパ民族による植民地支配の犠牲者となるなど、多くの歴史的類似性を持つ。これら歴史の類似性から、自国の現状の改善や変革をより効果的に勝ち取るべく連帯を望む共通意識が生まれた。こうした点が示されたのが、1955年にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議だった。 ...

スカルノは祖国をひとつにまとめ、独立へと導いた。国民を劣等感から解放し、彼らにインドネシア人としての誇りを植え付けた。これは350年に及ぶオランダの植民地支配と3年半の日本の占領を経た後に達成された事であり、決して取るに足らないものではない。1945年8月17日にスカルノが行なった事は、1776年7月4日にトーマス・ジェファーソンがアメリカ国民に対して行なった行為と何ら変わりはない。加えて、スカルノはこれほどまでに異なる民族、文化、宗教的背景を持つ国民を一滴の血も流すことなくまとめあげた現代アジア唯一の指導者だろう。彼が成し遂げたものを、その後を継いだスハルトが自らの新秩序体制を確立するために数十万人の国民の命を奪い、投獄したことと比較してみてほしい。 ...

本誌がラトナ・サリ・デウィ・スカルノ(53)の特集を組むのはこれで2回目となる。それも仕方がない事だろう。インドネシアの故スカルノ初代大統領の伴侶であったこの未亡人はいずれにせよ話題に事欠かない人物であるためだ。初めて特集を組んだのは昨年、デウィがアメリカ・アスペンの上流階級が集う社交場でマリア・オクタヴィア・オスメーニャとの乱闘事件を起こした時だった。 ...

スシはスピーチを求められると、グル―のクリエイティブな才能と他のスカルノ家の面々に敬意を抱いていると話した。「私たちは国民として、ブン・カルノ(スカルノ)とその家族を誇りに思わなくてはなりません。私はマス・グル―に敬意を抱いています」とスシは語った。 ...

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