インドネシア・コンパス紙が2001年に発行したスカルノ生誕100周年特別号から日本軍政期のスカルノに関する記事を紹介します。出典はAiko Kurasawa, “Bung Karno di Bawah Bendera Jepang (100 Tahun Bung Karno)”, Kompas, 1 Juni 2001, hlm. 59.です。
記事では「対日協力の経緯」「スカルノと宣撫映画」「ファトマワティとの結婚」「日本人との交流」「日本に対する強硬姿勢」「日本の友人が語るスカルノ」という6つのテーマから、日本軍政期におけるスカルノを論じています。なお、分量がA4にして6頁ほどあるのでブログでは3回に分けて紹介する予定です。
倉沢愛子「スカルノと日本軍政」
2001年6月1日付『コンパス』紙(スカルノ生誕100周年記念号)
(1)対日協力の経緯
記事では「対日協力の経緯」「スカルノと宣撫映画」「ファトマワティとの結婚」「日本人との交流」「日本に対する強硬姿勢」「日本の友人が語るスカルノ」という6つのテーマから、日本軍政期におけるスカルノを論じています。なお、分量がA4にして6頁ほどあるのでブログでは3回に分けて紹介する予定です。
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倉沢愛子「スカルノと日本軍政」
2001年6月1日付『コンパス』紙(スカルノ生誕100周年記念号)
(1)対日協力の経緯
ブン・カルノことスカルノはインドネシアが日本軍に占領された時、なぜ対日協力に踏み切ったのか。その経緯とはどのようなものだったのか。
1942年初頭、日本軍がインドネシアへ進駐した時、ブン・カルノはスマトラにいた。オランダに流刑に処されたスカルノはエンデに始まり、フローレス、ベンクルと流刑地を転々とした。スカルノは当時、妻インギット・ガルナシとともに13年間にわたってジャワ島外へ追放されていた。
スカルノが日本軍の使節と会い、再びジャワ島へ戻った経緯は彼の自伝にも記されている。日本軍が上陸間近との知らせが入ると、オランダ警察がベンクルにあるスカルノの自宅に出向いた。彼らはスカルノをパダンに連れ出し、そこからオランダ高官とともにオーストラリアへ移動させようとしていた。
オランダはおそらくブン・カルノが日本に利用されることを恐れていたのだろう。スマトラ島西海岸に近づきつつあった日本軍に悟られぬよう、ブン・カルノ夫妻は徒歩で密林をかき分け、パダンに向かうよう命じられた。数日間の移動を経て密林を抜けると、彼らはパダン行きのバスに乗り込んだ。当時、パダン市の情勢は混迷を深めており、オランダ人の多くはすでに街から脱出していた。パダンに到着した一行だが、オーストラリア行きの船は見つからず、結果としてブン・カルノはオランダの意図とは裏腹にその場に置き去りにされる形となった。これこそがオランダが犯した大きな過ちであるとブン・カルノは自伝に記している。スカルノはパダンに留まる決意を固め、友人宅に落ち着いた。日本軍がパダンへ進駐したのは、その一週間後のことだった。
ある日、宣伝部の坂口大尉がブン・カルノのもとを訪れ、近況を尋ねた。会話はフランス語で行われた。坂口はブン・カルノを第25軍司令部が置かれたブキッティンギに招いた。スカルノはブキッティンギへ出向くと、そこで藤山大佐と会談した。
何の進展も見られないまま、数週間が過ぎた。その後、ジャワからブン・カルノをジャカルタへ帰還させよとの命令が下った。当然ながらブン・カルノはこの帰還を大いに歓迎した。1942年6月―日本軍政の開始から4か月後―ブン・カルノ夫妻はパレンバンから海路でジャカルタへ向かった。
今村大将(ジャワ島を占領した第16軍の司令官)の回想録には、ブン・カルノのジャカルタ帰還に関する逸話が記されている。ある時、インドネシアの青年たちから日本軍政部宛てに、ベンクルに流刑中のブン・カルノの解放を求める嘆願書が送られてきた。当時、町田敬二中佐が率いていたジャワ宣伝部はスカルノの解放ついて熟慮を重ねた結果、彼の協力を得ることが軍政上有利な処置であるとの結論に至った。そして、スマトラ島にいるブン・カルノを探し出すように命じた。坂口大尉がブン・カルノのもとに訪れたのは、おそらくこの命令に基づいたものだろう。
南方総軍司令部の首脳部はこの決定に批判的だった。彼らはブン・カルノを急進的な民族主義者とみなしており、彼が解放されることで否定的な影響が生じることを懸念していた。今村大将は逆にそうした風評を全く意に介することなく、宣伝部の決定を支持した。
今村大将の手記によれば、ブン・カルノが今村との面会を求めたのは、ジャワ島帰還から程なくしてのことだった。今村はことわる筋のものではないしてとそれを受け入れた。
この点に関して宣伝部班長の町田敬二中佐はやや異なる見解を示している。町田によれば、スカルノと今村の会談は宣伝部が主導したものであるという。今村大将にスカルノとの会談を了承させるため、町田は画家のバスキ・アブドゥラを利用した。今村大将の肖像画を描くためにバスキ・アブドゥラを官邸に派遣し、ブン・カルノとハッタをその介添え役として同行させた。この時、バスキ・アブドゥラはスカルノの親類ということにした、と町田は記している。
今村大将も自身の肖像画を描いたバスキ・アブドゥラという画家について言及している。回想録では、バスキ・アブドゥラはスカルノの甥であると記されている。町田がなぜ こうした方便を用いらなければならなかったのかは定かではない。おそらくは理由は単純なもので、町田は両者の会談を不安に思っていたのだろう。また、この会談が今村とブン・カルノの初めての会談であるかについて確証はない。
会談が実際に行なわれた証拠として、一枚の写真が残されている。写真には今村大将、バスキ・アブドゥラ、ブン・カルノ、ブン・ハッタ、およびバスキ・アブドゥラが描いた今村の肖像画を手にする町田の姿が収められている。この出来事は、著名な画家であるバスキ・アブドゥラが過去に日本軍司令官の肖像画を描いていたという点で非常に興味深い。
ブン・カルノについて、今村は「温厚、上品な顔つき、平静な言葉つき」という印象を抱いていた。当時、司令部の通訳のひとりがカリマンタンで生まれ、オランダ人小中学校で学んだ日本人の青年だった。年齢は18歳だったが、卓越したインドネシア語の能力を持ち合わせていた。
初めての会談で、今村大将はブン・カルノに日本に協力する意思があるかを尋ねた。今村によれば、決して無理強いはしなかったという。今村はスカルノに「軍に協力」か「中立」という選択肢を提示した。今村はブン・カルノが日本に抵抗するならば、暴力的手法に訴えざるを得ないと語った【訳注1】。今村はまた、インドネシアの独立を約束しなかった。日本政府が今後もインドネシア占領を継続する意向を示していたためだ。今村が約束したのは、治安状況の改善と福祉の向上についてのみだった【訳注2】。
【訳注1】この点に関して、今村の回想録によれば「もしもあなたが、日本軍の作戦行動なり、軍政なりを妨害されるなら、戦争の終結までは自由行動を許しません。この場合でもオランダ官憲のやったような、牢獄収容などは、いたさないつもりです」(今村、397頁)とスカルノに伝えている。
【訳注2】今村の回想録から引用。「私が今、インドネシヤ六千万民衆に、公然とお約束できるたった一つのことがらは、私の行なう軍政により、蘭印政権時代の政治よりも、よりよい政治介入と、福祉の招来とだけです」(同上)
ブン・カルノの自伝に記された今村大将との会談も、今村の手記の内容と矛盾はない。自伝によれば、今村はブン・カルノに対日協力を強制しておらず、インドネシア独立の約束もしていない。今村が語ったのは、すべては天皇が決めることであり、彼自身も今後のインドネシア情勢がどうなるかは分からないということのみだった【訳注3】。
【訳注3】今村の回想録には、スカルノとの会談時に天皇に関する記述はない。
今村との会談を終えたブン・カルノは仲間たちと数日にわたる話し合いを持った。そして、最終的に日本に協力するとの決定がなされた。自伝によれば、ブン・カルノの第一の目的は日本への「協力」ではなく、この機会をインドネシア人民の将来を向上させるために「利用」するというものだった。当然、リスクは大きかったが、ブン・カルノにはそれを克服できるという確信があったのだろう。ブン・カルノは日本軍が長きにわたってインドネシアに留まることはないと予測していた。日本は近いうちに敗戦を迎える。したがって、表立って日本に抵抗するべきではないとスカルノは考えていた。
フィリピン指導者の日本との協力も、スカルノはおそらく考慮したはずだ。インドネシアと状況は異なるが、フィリピンは1936年にコモンウェルス政府が作られ、1946年以降はアメリカからの完全な独立へと移行するという約束がなされていた。こうした希望は日本の進駐によって打ち砕かれた。ケソン大統領はアメリカ兵とともに亡命し、フィリピン国民を救うために対日協力を部下に命じた。日本に協力した者たちは例えば、ホセ・P・ラウレル(コラソン・アキノ政権の副大統領サルバドール・ラウレルの父)とベニグノ・S・アキノ(故ベニグノ・アキノ・ジュニアの父およびコラソン・アキノ元大統領の義父)が挙げられる。アメリカが再びフィリピンを占領した時、対日協力を行ったフィリピン指導者たちは裏切り者として訴えられ、裁判にかけられた。しかし、フィリピンが1946年に完全なる独立を果たすと、彼らの裁判手続きは停止された。これは換言すれば、新政権の指導者が当時の指導者たちが日本に協力せざるを得ない事情を理解していためであるといえる。
【参考文献】
今村均『今村均回顧録-改題「私記・一軍人六十年の哀歓」』芙蓉書房出版、1980年(昭和55年 改題第1版発行)。
倉沢愛子「スカルノ・ラウレルから見た『大東亜』戦争」『歴史読本』2009年9月。
スカルノ(黒田春海訳)『スカルノ自伝―シンディ・アダムスに口述』角川文庫、1969年。
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