ラフマット・オノ、インドネシア最後のサムライ

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写真:ラフマット・シゲル・オノ。北海道出身。45年独立戦争の退役軍人。インドネシア共和国独立戦争(1945-1949)で左腕を失う。盲目となったラフマット・オノは現在、インドネシア唯一の元残留日本兵。

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片腕のない盲目の老人が必死になって軍服に身を包んだ。胸にはちぎれかけたゲリラ勲章がぶら下がっていた。彼の名はラフマット・シゲル・オノ(95)。元日本兵であるインドネシア共和国独立の闘士だ。

小野は現在、「インドネシア最後のサムライ」となった。小野と同様にインドネシア独立の闘士となった日本兵はおよそ千人にのぼる。「先週亡くなった友人はカリバタ英雄墓地に埋葬されました」と小野は話した。この友人とは2013年10月15日に93歳で亡くなった、シリワンギ師団ティルタヤサ部隊元隊員、ウマル・ハルトノこと宮原永治少尉を指す。

北海道に生まれたラフマット・オノは東ジャワ州ブリタル・ウリンギを拠点とする日本人特別遊撃部隊(PGI: Pasukan Gerilja Istimewa)の元隊員だった。PGIは独立戦争(1945‐1949)時におけるインドネシア軍エリート部隊のひとつであり、隊長であるブン・アリフこと吉住留五郎、そしてアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫が率いていた。

元インドネシア海軍中将のラフマット・スメンカルによれば、PGIの拠点はある渓谷に隠されていたという。水源、洞窟、木の上の見張り台などが上手く隠されていた。PGIは過去にオランダ女王ウィルヘルミナ生誕の催しを混乱に陥れたこともある(【訳注】)。 

<【訳注】:PGIが1948年8月31日(ウィルヘルミナの誕生日)に行なった東部ジャワ・パジャランに位置するオランダ軍哨所への攻撃を意図していると思われる>

PGIは拠点が敵に知られると、やがて崩壊した。その不幸な日は1949年1月3日であったとラフマット・オノは語る。アブドゥル・ラフマンはその日に戦死した。【訳注】

<【訳注】:1949年6月30日、東部師団命令によって日本人特別遊撃部隊(PGI)はウントゥン・スロパティ十八部隊に改編された>

現在、東ジャワ・バトル市に暮らすラフマット・オノによれば、独立戦争でインドネシアを支援したのは、インドネシアを独立させるという日本の約束に責任を感じていたためであるという。

ナビル財団の歴史家であるディディ・クワルタナダは日本軍の脱走兵たちがインドネシア側に付いて戦う動機は様々であったと話す。「連合軍による裁判に恐れをなした者もいれば、敗戦兵として帰国することを恥じた者もいた。ましてや、彼らの祖国も崩壊しており、日本での生活がどうなるのかさえ分からなかった。日本占領軍である連合軍が存在するという現実に直面し、焦燥感に駆られてもいた」とディディは語った。

こうしたインドネシア共和国の独立戦争における日本人の存在は決して唯一のものではない。インドネシア軍には同様に、台湾、フィリピン、インド、パキスタン、そして南太平洋出身の者たちが数多く関与していた。

インドネシアに望むことは、と問われたラフマット・オノは怒りを堪え、震えた声でこう答えた。「我々は過去に損得を抜きにして戦った。すべてはインドネシアのためだ。インドネシアは汚職がなくなれば発展できる。私はもうすぐこの世を去るが、汚職と戦うことで我々の戦いを尊重して頂きたい」

"Veteran '45: Rachmat Ono, 'Samurai Merah Putih Terakhir'", Kompas, 19 Oktober 2013.

【参考文献】
林英一(2007)『残留日本兵の真実 インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』作品社。



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