インドネシアの国営出版社バライ・プスタカ社が発行する自国通史『インドネシア国史(第5版)』に「従軍慰安婦」の項目が追加されたので、以下に該当部分の翻訳を掲載します。出典はNugroho Notosusanto et al., Sejarah Nasional Indonesia VI, Jakarta: Balai Pustaka, 2008, pp.68-75.です。
★ ★ ★ ★ ★
5.従軍慰安婦(Jugun Ianfu)
日本占領政府は16歳から40歳までの徴用可能な男性を労務者(romusha)として動員したが、女性の場合は婦人会(Fujinkai)といった公的な目的だけではなく、欲望のはけ口としても動員された。これらの女性は従軍慰安婦(jugun ianfu)と呼ばれた。
従軍慰安婦の募集は労務者と同様、基本的には村落部で行われたが、日本の軍人や民間人を問わず、彼らの生理的欲求を満足させるために、暴力、甘言、脅迫などの強制的な手段が用いられた。また、労務者の募集は表立って行われたのに対し、「性奴隷」を意味する従軍慰安婦の募集は秘密裏に内輪で行われた。この閉鎖的な仕組みにおいては募集に関する正式な告知がなされることはなかった。日本軍政は募集に際して、村長および群長などの地域の有力者や隣組(tonarigumi)の助力を得ていた。彼らは声をかけるだけではなく、時にはまだ年端もいかない娘たちを、脅迫もしくは狙った少女の家族に働きかけるなどの方法で募集計画に参加するよう強制した。ジョクジャカルタ出身の元従軍慰安婦スハルティは次のように証言した。彼女の父親はある時、村長に呼び出された。そして、娘を今後バリクパパンの学校で教育を受けさせ、卒業後は役所で働けるようにすると言われたという。しかし、当時まだ15歳でだったスハルティはその後、半年にわたって東カリマンタンのバリクパパンで従軍慰安婦とさせられた。【165】
従軍慰安婦とされた女性の大半は教育水準が低く、中には全く教育を受けていない文盲の者もいた。教育の欠如だけではなく、彼女たちは経済的にも困窮していた。こうした無知と貧困が理由となり、女中、レストランの給仕、もしくは肉体労働といった専門的技術を必要としない割に身入りの良い求人内容を彼女たちは頭から信じ切っていた。ジョクジャカルタ出身の元従軍慰安婦ラシエム(Lasiyem)は、そうした求人に応募した理由を以下のように語っている。
「...どうすれば働けるのか、そればかりを考えていました。自分の子供たちに食べ物を買ってあげたい。そうした思いから求人を見つけるとすぐに応募しました。...夫には伝えませんでした」【166】
従軍慰安婦の募集は、ジョクジャカルタ出身の元従軍慰安婦マルディエムが経験したように、芸能関係のルートを通じても行なわれ、そこには関係者も関与していた。巡業劇団「パンチャ・スルヤ(Pantja Soerja)」に所属する俳優のひとりがマルディエムの希望に沿う形で、彼女をカリマンタンで歌手にさせると約束していた。マルディエムは当時、スルヨタルナン地域で働く「(ジャワ貴族の家庭に仕える)召使い」という自らが置かれた環境から自由になりたいとの希望を持っていた。その他に、医師や役人たちが自らの地位の高低を問わず、将来的に従軍慰安婦とされる女性労働力の確保に直接的にも間接的にも関与していた。彼らは村落部や都市部を問わず、女性たちへ独自のルートから接触できるとみなされていた。
従軍慰安婦の多くはきちんとした家庭の娘であったといえる。彼女たちの中にはまだ男性経験がないばかりか、年端のいかない少女もいた。また、子持ちの既婚者である場合もあった。しかし、彼女たちは武器を振りかざし残忍な脅迫を行なう日本軍に対して恐れを抱いており、肉体的精神的な苦痛で溢れる場所に連れて行かれても、拒否や逃走はできなかった。
日本軍政当局は日本軍が駐留する全ての地域に従軍慰安婦が住まう場所を設置した。これは日本兵による現地住民に対する強姦の防止、軍隊の規律の維持、および軍の弱体化につながる性病の蔓延を予防するためだ
従軍慰安婦とされた女性たちは慰安所(ian-jo)と呼ばれる日本式の娼館に収容された。慰安所として用いられたのは例えば、オランダが残した寮、日本軍司令部、強制的に明け渡させた現地住民宅などの跡地だった。各慰安所では普通、日本軍による厳重な警戒が敷かれた。慰安所の女性には全員に番号付きの部屋があてがわれた。さらに、女性たちの名前は日本名に変えられ、それが各部屋のドアに記された。【167】例えば、ジョクジャカルタ出身の少女マルディエムには「モモエ(Momoye)」という日本名が与えらえた。やがてマルディエムはある事に気が付いた。日本人客たちは日本名があると、実際にはインドネシア人女性なのだが、まるで自国出身の女性を相手にしているかのように感じていたという。これは屈辱的な行為であったが、マルディエムや仲間たちは甘んじて受け入れざるを得なかった。【168】
写真1.18 (a) 若かりし頃のマルディエム;(b) 老年のマルディエム(写真はエカ・ヒンドラ所蔵)
マルディエムは従軍慰安婦(性奴隷)として第一次の募集で集められた女性24名のひとりだった。彼女たちは何も知らされることなく、南カリマンタン州バンジャルマシン市郊外にあるトゥラワン(Telawang)慰安所に入れられた。第一次に集められた他のジャワ人女性たちも慰安所ではマルディエムと同様に日本名を与えられた。ワギヌム(Waginem)という名前はサクラ(Sakura)に、スハルティ(Suharti)はマサコ(Masako)、ヌル(Nur)はノブル(Noburu)、ジャティヌム(Jatinem)はハルエ(Harue)といった具合に変更された。【169】彼女たちはもともと自らの人生を変えたいとの思いから求人に応募したのだが、真っ先に強制されたのは自らが生まれた国で他の民族から侮辱を受けるという屈辱的な仕事であった。1943年に第二次の募集で従軍慰安婦とされた35人の女性たちも、例えばラシエム(Lasiyem)はタキト(Takito)、ギヤ(Giyah)にはサクラ(Sakura)という日本名が与えられるなど、同様の運命を辿った。【170】ギヤはトゥラワン慰安所にいる間に次第にやせ細り、ついには命を落とした。ギヤの遺体は、腐敗したまま放置された労務者たちの遺体とともにパサール・ラマ地域に積み上げられた。マルディエムと仲間たちはトゥラワン慰安所のチカダ(Cikada)という名の経営者に虐待を受けていたが、このチカダを説得することでギヤをひとりの人間として相応しく公共墓地に埋葬した。【171】第二次の募集で集められた従軍慰安婦たちに配給される食料の質は低下していった。肉類がないこともしばしばあり、毎日のように正午から翌朝まで客への奉仕を強制されていた彼女たちには不十分な内容だった。
1944年半ばに第三次の募集で9人の慰安婦がやって来ると、トゥラワン慰安所の慰安婦に対する食料の配給はわずか日に一度となった。この募集で集まった慰安婦の中にスハルティ(Suharti)という女性がいた。名前をサクラ(Sakura)に変えたスハルティはバリクパパンで連合軍による爆撃から難を逃れたひとりだった。彼女はその後、バンジャルマシンを目指して52日もの間、徒歩で村々を通過し、森を越えていった。第三次に募集された慰安婦の中で体の弱い者はその後、病気と飢えが原因となって死亡した。トゥラワン慰安所の食糧事情が日増しに悪化する中で、スハルティは日本が敗戦をむかる1945年までおよそ半年にわたって、日本人たちの性欲を満たす奉仕を強制された【172】。
慰安所の女性たちは性奴隷(従軍慰安婦)とされる前に、人としての尊厳を踏みにじるような健康診断を受けていた。彼女たちは医務官の前ではなすすべもなかった。服を脱ぐよう命じられ、最終的に一糸まとわぬ姿になると体中がまさぐられた。中には陰部に鉄製の長めの器具を挿入する検査が行われる場合もあった。女性たちには理由を問いただす勇気などなく、ましてや拒否はあり得ない事だった。この器具は押して先端部分を開くことで女性器を広げるために使われた。この「アヒルのくちばし(cocor bebek)」と呼ばれる器具を使って、従軍慰安婦の候補とされた女性の陰部がすでに性病に感染しているか、健康なのかを検査した【173】
彼女たちは慰安所で強姦を受けたが、それはマルディエムにとっても同様だった。当時13歳の彼女が初めて犯されたのは初潮前のことだった。相手は髭面の日本人で、トゥラワン慰安所で初めての健康診断を行なった医者の助手だった。マルディエムはその初日、すでに流血していたにも関わらず、6名の男たちへの奉仕を強制された。その不運な日に、彼女は自らの尊厳を貶められ、奪われ、将来への夢や希望も打ち砕かれた。マルディエムは自殺寸前まで追い詰められたが、夢に出てきた亡き父が人生の試練を前にしても強くあれ、自殺という不名誉な行為を行なってはならないと助言を与えてくれたことで思いとどまる事ができたという。もはや選択の余地はなく、マルディエムは苦しみの日々を送ることを余儀なくされた。 15歳を迎えるころ、マルディエムは医師から麻酔なしで無理やり腹部を押さえつけられ、五か月になる我が子の流産を強制された。それから程なくして、彼女はトゥラワン慰安所のチカダ(Cikada)という名前の管理人への奉仕を命じられた。このチカダの要求を拒否すると、蹴る殴るといった物理的な虐待が繰り返され、マルディエムは6時間にわたって気を失った。従軍慰安婦とされた間に加えられた虐待によって、マルディエムは体に障害を負い、性交渉時の精神的なトラウマを抱えるようになった。【174】
日本兵は平手打ち、殴打、蹴りなどの虐待を行なった。中には酒に酔った状態で虐待を行なう者もいた。彼らは従軍慰安婦の奉仕に満足がいかない場合、普通は動物が行うような非人道的な行為を行なったが、当然ながら体力および倫理的要因から、従軍慰安婦はそれに従うことはできなかった。
写真1.19 (a) 従軍慰安婦に使われた健康診断器具; (b) 2000年に撮影されたトゥラワン寮前のチカダの自宅。マルディエムはこの場所で虐待された。(写真はエカ・ヒンドラ所蔵、および木村公一との共著Momoye, Mereka Memanggilkuに収録)
従軍慰安婦たちには選択の余地はなかった。観念して日々の苦しみを受け入れるのみだった。慰安所は故郷から遠く離れた場所にあり、脱走などはあり得なかった。ましてや彼女たちは地図が読めないばかりか、慰安所は支払制であったにも関わらず、自分たちの外出用の現金を持っていなかった。
慰安所を訪れる客は誰もが、軍人や民間人を問わず、切符とコンドームを手に入れるために並ばなければならなかった。しかし、コンドームは性交時の快感を損なうと考えられており、客の大半は使おうとはしなかった。
慰安所では時間帯によって異なる料金が設定されていた。正午から夕方までは軍人に割り当てられ、支払いは2.5ルピア。17時から24時までは民間人で3.5ルピア。翌朝まで従軍慰安婦と過ごす場合は12.5ルピアとなった。こうした支払い制度が適用されてはいたが、従軍慰安婦たちには客から渡される切符をのぞいて報酬が支払われることは一度もなかった。慰安所の管理人であるチカダからは、客から渡される切符を集めておけば、彼女たちが従軍慰安婦をやめた際に現金と交換する事ができると伝えられていた。【175】
だが、その後の流れの中で約束が果たされることはなく、従軍慰慰安婦たちが切符を気にかけることはなくなった。彼女たちは客が訪れるたびに切符を布団の下に保管していた。マルディエムも大きなかごに一杯以上の切符を貯めていたが、トゥラワンの慰安所が閉鎖された時に切符をそのまま置いてきた。13歳から従軍慰安婦とされたマルディエムや、その仲間たちはついに報酬を得ることはなかった。【176】
ジャワ島以外の地域、例えばモロタイの従軍慰安婦たちは、日に5人から10人にのぼる日本兵への奉仕にはお手上げとなっていたが、その中のマレーシア華人女性シンセなどは客である日本兵たちから受け取った切符に基づき、6万ルピアの月給を得ていたという。他方で、モロタイに20名いたとされる従軍慰安婦のうち一人は肉体的精神的負担に耐え切れずに服毒自殺を行なった。
従軍慰安婦としての苦しみは、中部ジャワ・アンバラワ収容所から日本軍が強制的に連行したオランダ人女性たちも経験していた。10人のオランダ人女性が収容所から連れ出され、クナリ行きのトラックに放り出された。クナリでは女性たちは日本語で書かれた内容不明の証書にサインを求められた。そして、2つのグループに分けられ、うち6人はその場からさほど離れていない「双葉荘」という慰安所へ送られた。
青い目をしたオランダ人女性たちは多くの日本兵たちに好まれた。それらオランダ人女性のひとりが語る所では、日本兵は初めのうちは女性のブロンドの髪を優しくなでまわしていたが、やがて乱暴に髪の毛を引っ張ると、そのままベッドに押し倒したという。このオランダ人女性は慰安所に入れられた初日に、部屋の前に並ぶ5人の日本兵に対して無理やり奉仕させられた。通気口もなければ排水溝もない、ムッとして息が詰まるような慰安所では同様の日々が続いた。慰安所内は収容所と似ており、肉体的精神的苦痛を感じる以外に出来ることはほとんどなかった。1か月後、彼女は精神に異常をきたした。一体どれほどの数のオランダ人女性が精神障害に苦しんだのかは定かではない。中部ジャワのオランダ人女性およそ100人が従軍慰安婦にされたと推定されている。
従軍慰安婦として強制的に動員されたインドネシア人およびオランダ人女性たちは心身ともに苦痛を被った。これは女性たちを強制的に性欲のはけ口にした日本の残虐性を示す証拠のひとつである。
【原注】
【165】Eka Hindra, “Jugun Ianfu, Kejahatan Perang Asia Pasifik yang Belum Terselesaikan” (makalah), 18 Oktober 2006.
【166】A. Budi Hartono dan Dadang juliantoro, Derita Paksa Perempuan: Kisah Jugun Ianfu pada Masa Pendudukan Jepang 1942-1945, 1997, hlm.89.
【167】Eka Hindra, “Jugun Iangu: Kejahatan Perang Asia-Pasifik…”
【168】A. Budi Hartono dan Dadang Julianto, op.cit., hlm.128.
【169】Eka Hindra dan Koichi Kimura, Momoye, Mereka Memanggilku, 2007, hlm.92; A. Budi Hartono, Dadang juliantoro, Ibid., hlm.135.
【170】Eka Hindra dan Koichi Kimura, Ibid., hlm.146.
【171】Ibid., 2006, hlm.142-144.
【172】Ibid., hlm.146-147.
【173】Eka Hindra dan Koichi Kimura, op.cit., hlm.97
【174】Kisah selengkapnya sebagai jugun ianfu lihat buku Eka Hindra dan Koichi Kimura, Ibid., hlm. 91-149; A. Budi Hartono dan Dadang Juliantoro, op.cit., hlm. 116-150
【175】Eka Hindra, “Jugun Ianfu, Kejahatan Perang Pasifik…”
【176】Budi Hartono dan Dadang Juliantoro, op.cit., hlm. 133
【177】Tempo, 25 Juli 1992
【参考文献】
ブディ・ハルトノ(宮本謙介訳)『インドネシア従軍慰安婦の記録-現地からのメッセージ』かもがわ出版、2001年。
【関連】
★ インドネシアは「従軍慰安婦」問題をどう報じたのか?-1992年『テンポ』誌「慰安婦」特集記事まとめ
インドネシア人の本音@honnesia【ブログ更新!】 インドネシアの漫画にみる日本軍政期の描写とは-日本兵、労務者、従軍慰安婦、郷土義勇防衛軍 https://t.co/NmLmXhVxaR https://t.co/coviuyLssy
2016/12/30 14:39:12
【関連】
★ インドネシアは「従軍慰安婦」問題をどう報じたのか?-1992年『テンポ』誌「慰安婦」特集記事まとめ
コメント