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歯に衣着せぬ「友人」
レプブリカ(2015年3月24日1面)

1964年7月21日、シンガポールは祝賀ムードに包まれていた。数千人のマレー系の若者たちが預言者ムハンマド生誕を祝うために、その日の朝からパレードを開催していた。

日が沈み始めると、辺りの様子が騒がしくなった。その時、マレー系の若者の一団が、道端でパレードを見ていた中国系の若者と小競り合いを始めていた。

一団がカラン地区へ着く頃には、当初は言い合いだったものが暴動に発展していた。激し殴り合いや投石が夜まで続いた。その日の終わりには、翌日のストレイツ・タイムズ紙が報じたように、23人が死亡し、その他数百名が負傷していた。これはマラッカ半島で最大となる民族衝突だった。

この暴動は同時にシンガポールがマレーシアから分離するきっかけともなった。マレー人が全マレーシアの支配者であれと唱えるクアラルンプールの統一マレー人国民組織(UMNO)と、シンガポールでリー・クアンユーが率いる反対勢力、人民行動党(PAP)との一体化はもはや不可能だった。

シンガポールの誕生だけではない。この暴動は現代シンガポールとインドネシア共和国にも影響を及ぼした。当時のマレーシア首相トゥン・アブドゥル・ラザクは、マレーシアと対立の最中にあるインドネシアが騒動の発生に関与していたとの声明を発表した。

この非難の真偽はさておき、その後一年も経たずに2人のインドネシア人青年が実際にシンガポールとの対立を招いた。インドネシアの海兵隊員であるハルン・サイドとウスマン・ハジ・モハマッド・アリがシンガポールのマクドナルドに爆弾を仕掛け、3人を殺害した。

この事件を受けて、リー・クアンユーとスカルノの関係は決して親密なものとはならなかった。リー・クアンユーは、自著「From Third World To First」で記したように、自国民を過大視するスカルノのスタイルは気に入らなかったと述べている。

スカルノの後継となったスハルトもリーとの関係は当初、とりわけシンガポールによるウスマンとハルンの死刑執行後は、あまり良いものではなかった。

しかし、インドネシア中部ジャワ・スマラン出身の父と祖父母を持つリーには和解の用意ができていた。1997年(訳注:原文ママ、1973年?)にインドネシアを訪問すると、リーはシンプルだが意味のある行動をとった。彼はジャカルタ・カリバタの英雄墓地にあるウスマンとハルンの墓に献花を行なった。これを受けて、リーとスハルトの関係は好転し、投資への道が開かれた。

リーとスハルト、この両者が比較的よく似た考え方を持っていたのは偶然の一致ではない。彼らは強権的と評された数々の政策に訴えなければならなかったが、国を加速度的に発展させた。「1970年代から80年代にかけて、私たちは毎年のように挨拶を交わし、意見を交換し、数々の問題について話し合ってきた」とリーは「From Third World To First」で記している。

スハルトに対するリーの支持は、1998年にインドネシアを襲った経済危機後、政権交代が迫る中でも消えることはなかった。リーは当時、インドネシアにおける突然の政権交代は状況の悪化を招くと確信していた。いずれにしても、リーはスハルトに関して、この友人は愛国者であるとの見方を崩さなかった。

スハルトに対する支持を背景に、リーとインドネシア第3代大統領ハビビとの関係はそれまでのような親密なものとはならなかった。特に、ハビビがシンガポールを「ちっぽけな赤い点に過ぎない」と評して以降、その傾向は顕著となった。こうした当時のハビビの発言は、東南アジアの経済危機を収束させる上でシンガポールが大きな役割を果たさなかったというインドネシア側の見解に関係したものだ。

リーは、ハビビにルピアのレートを安定させるだけの能力があるのか疑わしく思っていた。後日、ハビビはルピアのレートを通常に戻すことに成功した。ハビビによれば、リーはハビビに対する自らの評価を謝罪したという。

一方で、インドネシア第4代大統領であるアブドゥルラフマン・ワヒド(グス・ドゥル)に関して、リーは、パプアニューギニアと独立直後の東ティモールをアセアンに加盟させようとするワヒドの考えには否定的だった。逆に、グス・ドゥルも、シンガポールに拠点を構える汚職犯罪者たちの引き渡し協定に合意しようとしない同国に対して苛立ちを募らせていた。

アメリカ人ジャーナリストのトム・プレートによる著作「Conversations with Lee Kuan Yew」において、リーはスハルトが退陣して以降のインドネシア歴代大統領に関する率直な評価を述べている。「ハビビは混乱を招いた。続くグス・ドゥルはさらなる混乱を生じさせた。メガワティは事態を収めようとした。SBY(スシロ・バンバン・ユドヨノ)は改善を見せたが、その道のりはいまだ遠い」と同書でリーは述べている。

シンガポールとインドネシアという両国関係の表舞台からは退いたが、インドネシアの指導者に対するリーの関心が消えることはなかった。SBYは自著「Selalu Ada Pilihan」の中で、リーから助言のようなものを受けたと語る。同書によれば、SBYは大統領に就任した2009年に驚かされたことがあるという。リーが、SBYは大統領在任期間の5年間で目標の30パーセントしか達成できないだろうと予測したためだ。

しかし、そうした評価は一方的なものではないとSBYは話す。というのも、リー自身も自らの能力が不足していると評価しているためだ。インドネシアは複雑な問題を抱えており、それら全てを1度や2度の大統領任期中に解決することがどれほど困難なことか。リーの予測はそうした分析を背景にしたものだった。

Republika, Selasa, 24 Maret 2015

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