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スカルノ
プラムディヤ・アナンタ・トゥール、タイム誌(1999年8月23日)

スカルノは祖国をひとつにまとめ、独立へと導いた。国民を劣等感から解放し、彼らにインドネシア人としての誇りを植え付けた。これは350年に及ぶオランダの植民地支配と3年半の日本の占領を経た後に達成された事であり、決して取るに足らないものではない。1945年8月17日にスカルノが行なった事は、1776年7月4日にトーマス・ジェファーソンがアメリカ国民に対して行なった行為と何ら変わりはない。加えて、スカルノはこれほどまでに異なる民族、文化、宗教的背景を持つ国民を一滴の血も流すことなくまとめあげた現代アジア唯一の指導者だろう。彼が成し遂げたものを、その後を継いだスハルトが自らの新秩序体制を確立するために数十万人の国民の命を奪い、投獄したことと比較してみてほしい。

同様に驚くべきは一部の者たちがスカルノが残したものを評価しようとしない事だ。インドネシア人からブン・カルノの愛称で呼ばれるスカルノは、新世紀の幕開けとなった年である1901年6月6日、ジャワの下級貴族である父とバリ人の母の間に生まれた。文武の才に恵まれ、当時一握りのインドネシア人のみに与えられたオランダ語高等学校への入学が許可された。学校入学にあたって父親にスラバヤへと送り出されたスカルノは、その地でインドネシアの著名な民族主義者であるチョクロアミノトと出会い、彼の自宅に寄宿した。このチョクロアミノトを通じて、スカルノは独立闘争へと傾倒していく。しかし、その類稀なる弁舌の才を持って、スカルノは自らの師であるチョクロアミノトを越える存在となっていった。

1929年、インドネシア国民党の前身となる組織の設立に関わってから2年後、スカルノはオランダに裁判にかけられた。この時スカルノが行なった2日間に及ぶ法廷演説は修辞的な傑作であり、1931年の釈放時には大観衆がこの新たな英雄を出迎えた。それから数年間、スカルノは持って生まれた弁舌の才を使い、インドネシア人に-ジャワ人、バリ人、アチェ人、スマトラ人ではなく-自分たちがひとつの民族であるとの自覚を芽生えさせた。彼は自らのキャリアのみならず、その生涯をも祖国の統一と平和に捧げたのだ。たとえ今日のインドネシアがスハルトの政策によって分裂の危機に瀕していようとも、これこそがスカルノが残した偉大なる遺産である。
 
しかし、歴史はスカルノに寛容ではなかった。当時の西洋諸国では、この魅力あふれる革命家を堕落した扇動者-西側諸国に対して自らの援助とともに地獄に落ちろと言い放ち、インドネシアを国連から脱退させた人物であると認識する者も多かった。1945年にモハマッド・ハッタとともに独立を宣言した時には、西側諸国の政治家や知識人の多くがスカルを発展途上諸国における輝かしい指導者のひとりであるとみなしていたが、彼らの賞賛はその後、共産主義という名の新たな悪魔が世界に広がる頃には鳴りをひそめていた。

スカルノは20世紀を、有色人種が西洋植民地主義の鎖を断ち切った事から、「有色人種の覚醒の世紀」と呼んだ。彼はこの過程において指導的な役割を果たした。1955年にバンドンで開催された歴史的な行事であるアジア・アフリカ会議を主導し、非同盟運動はラテンアメリカまでの広がりを見せた。スカルノはまた、20世紀を大国が思うがままに小国の政策に干渉する時代という意味で「介入の世紀」と呼んだ。こうした介入は往々にして情報機関の役割となる。彼らは国家の中の国家として、共産主義を地上から葬り去るという任務を担っていた。アジア、アフリカ、ラテンアメリカでは、これらの戦略が赤の脅威に対する防波堤として軍事政権を支えていた。アフリカのモブツやアジアのスハルトなどの抑圧的な政権は、その抑圧が共産主義の弾圧や民主主義の名のもとに実行される限りにおいて、西側諸国からの恩恵を受けることができた。

こうした状況において、スカルノはもはや第二のトーマス・ジェファーソンたりえず、代わりに共産主義勢力の拡大を許した人物であると見なされていた。スカルノに対する反対運動は彼が大戦中に対日協力者であったという中傷から始まった。続いて、権力の晩年には独裁者に成り下がったとの非難が投げかけられた。

こうした非難は正しいのか。スカルノは対日協力者であったのか。1930年代にオランダの収容所にいた時でさえ、スカルノは、結局は相手にされなかったものの、日本のファシズムを警戒するためにオランダはインドネシアの民族主義者たちと協力するべきとの私信を蘭印総督宛てに送っていた。しかし、日本がインドネシアに侵攻すると、オランダは獄中のスカルノを含めたインドネシアおよびその国民を日本に引き渡した。

スカルノが占領者との協力関係にあったことは明らかだが、それは民族主義指導者の盟友ハッタの支援を得て行われたものであり、彼自身は自らの影響力を祖国の発展のために用いていた。自ら認めているように、スカルノは日本軍のために数千人の労務者を徴用した。彼らの大半は大戦中に死亡した。しかし、彼は同時にインドネシア全土で国民の民族意識を醸成するために日本のラジオ放送網を利用していた。スカルノが国民の独立闘争に対する意識を目覚めさせる好機としたことは果たして非難されるべきものなのだろうか。彼はその時が来ると占領者の目の前で雄弁をふるい、国民を数世紀にわたる眠りから目覚めさせ、独立に向けた戦いへの準備を促したのだ。1945年11月10日にインドネシアを再びオランダの支配下とするべく連合軍がスラバヤに上陸した。世界はこの時、インドネシアの青年たちが連合軍との戦闘で見せた英雄的行為の目撃者となった。

スカルノは独裁者であったのか。彼には独裁者としての性質はなかった。スカルは西洋的理念、とりわけ民主主義、フランス革命、啓蒙思想から多大な影響を受けていた。

では、指導民主主義はどうだろうか。これは1959年にスカルノが制定した大統領に権限を集中させた政治体制である。スカルノは20年にわたって大統領職にあったが、彼が実際に権力を掌握したのは最後の6年間、すなわち指導民主主義体制期のみであった。では、スカルノはなぜこのような体制を作り上げたのか。おそらくはこれが彼なりの民主主義に対する決意の現れだったのだろう。インドネシアには当時、少なくとも60の政党が存在し、数か月毎に新たな政権が誕生しかねない状況にあった。スカルノはその60に及ぶ政党を11‐これら全ての独立性は保たれていた-に再編成した。これは政治的必要性であるとスカルノは言った。

スカルノを批判する者たちはそれを独裁政治と呼ぶ。しかし、その6年後、彼が正体不明なクーデター(失敗に終わった共産党蜂起と言われる)によって失脚した時、その地位はスハルトによる真の独裁体制にとって代わられた。スカルノは1970年にこの世を去ったが、彼が思い描いた自由で平和なインドネシアという夢は、暴力的で息が詰まるような軍事支配に乗っ取られていった。

近年では、スカルノを再評価する機運が高まり始めている。30年にわたって権力の座にあったスハルトは1998年にその座を追われたが、今年にはスカルノの娘メガワティがこの44年間で初となる真に自由な総選挙で勝利した。これは、ある意味では、スカルノが勝ち得た政治的復権であると言えよう。

しかし、これからの数か月はインドネシアにとって非常に重要なものとなる。国家の「安定」を軍事力に頼るのは逆効果にしかならないと気が付くべき時が来たのだ。昨今のインドネシア―アチェ、アンボン、イリアン・ジャヤ、東ティモール―におけるほぼ全ての民族および分離独立紛争ないし、経済危機や政治不安をどのようにして解決していくべきか。その全ては軍人を軍人のままにしておけるかどうかにかかっている。インドネシアにはもはや軍人出身の政治家は必要ない。求められるのは、カリスマ性に富んだ若き独立の指導者が半世紀前に成し遂げた様に、国民をひとつにまとめ上げられる人物である。
 
プラムディヤ・アナンタ・トゥール(ブル島四部作の著者)