2015年1月18日付けコンパス紙1面(上記写真赤枠、および15面)「神戸地震から20年-災害から学び続ける日本(20 TAHUN GEMPA KOBE: Jepang Terus Belajar dari Bencana)」の翻訳です。神戸市で行われた追悼行事や関係者の取材などの現地取材を中心に神戸発の記事として掲載されています。
神戸地震から20年‐災害から学び続ける日本
コンパス(2015年1月18日1・15面)
KOBE, KOMPAS - この街を襲った地震から20年。追悼行事に参加するために数千人もの人々が兵庫県神戸市の公園を埋め尽くした。1月17日土曜日早朝、参加者は氷点下に近づく気温の中で黙とうを捧げていた。
コンパス紙記者アフマド・アリフの報告によれば、数多くの市民が昨日未明から東遊園地に姿を見せた。彼らは震災の犠牲者数と同じ6434本のろうそくに灯をともし、「1.17」という文字を形作っていた。
現地時間5時46分、1995年1月17日に神戸を襲ったマグニチュード7.3の地震の発生と同時刻に、参加者全員がその場で黙とうを捧げた。正午近くには、明仁天皇による献花が行なわれ、犠牲者に哀悼の意が表された。
地震によって数千人の犠牲者だけではなく、10兆円もしくは858億ドルにのぼる損失が発生した。これは2011年に仙台を襲い2万人を超える犠牲者を出した地震と津波が発生するまで、戦後日本が経験した最悪の震災となった。
「地震が起こった時に私はまだ3歳でした。震災で父を亡くしましたが、喪失感は今もまだ消えません。避難所では2年間暮らしました。あの震災を忘れてはいけない。忘れることがあってはなりません」と神戸市に暮らすオジマ・ミギワ(23)は語った。
神戸市に暮らすセイイチ・フジモト(33)は、多くの若者たち、とりわけ直接に震災を経験していない世代の間で神戸を襲った地震の恐怖が忘れられ始めていると話す。「どれほどの強さの地震が一体いつ発生するかは予測できません。だからこそ、私は若者たちに最低でも自分を守れるだけの警戒や準備を呼び掛けているのです。仮に再び地震が発生した時には、前回の教訓がある訳ですから、少なくともこれまで以上の準備ができているでしょう」とフジモトは語った。
震災から20年を経て、神戸市は急速に復興した。住宅、道路、線路、ビジネスセンターなどが再び建設され、神戸市の資料によれば、およそ16.3兆円の費用が費やされた。「しかし、精神的な面では神戸はまだ完全には復興していません。犠牲者の家族の多くが今もトラウマを抱えています」と広瀬朋義・神戸市危機管理監は語った。
災害から学ぶ
被災者の社会および経済的な回復の他に、日本にとって重要な優先事項となるのは同様の出来事を繰り返さないためにも震災から学ぶことだ。山谷えり子防災担当相も「この震災の経験と教訓をしっかりと継承し、安心して暮らせる社会の実現に全力を挙げる」と追悼式典で述べている。
コンパス(2015年1月18日1・15面)
KOBE, KOMPAS - この街を襲った地震から20年。追悼行事に参加するために数千人もの人々が兵庫県神戸市の公園を埋め尽くした。1月17日土曜日早朝、参加者は氷点下に近づく気温の中で黙とうを捧げていた。
コンパス紙記者アフマド・アリフの報告によれば、数多くの市民が昨日未明から東遊園地に姿を見せた。彼らは震災の犠牲者数と同じ6434本のろうそくに灯をともし、「1.17」という文字を形作っていた。
現地時間5時46分、1995年1月17日に神戸を襲ったマグニチュード7.3の地震の発生と同時刻に、参加者全員がその場で黙とうを捧げた。正午近くには、明仁天皇による献花が行なわれ、犠牲者に哀悼の意が表された。
地震によって数千人の犠牲者だけではなく、10兆円もしくは858億ドルにのぼる損失が発生した。これは2011年に仙台を襲い2万人を超える犠牲者を出した地震と津波が発生するまで、戦後日本が経験した最悪の震災となった。
「地震が起こった時に私はまだ3歳でした。震災で父を亡くしましたが、喪失感は今もまだ消えません。避難所では2年間暮らしました。あの震災を忘れてはいけない。忘れることがあってはなりません」と神戸市に暮らすオジマ・ミギワ(23)は語った。
神戸市に暮らすセイイチ・フジモト(33)は、多くの若者たち、とりわけ直接に震災を経験していない世代の間で神戸を襲った地震の恐怖が忘れられ始めていると話す。「どれほどの強さの地震が一体いつ発生するかは予測できません。だからこそ、私は若者たちに最低でも自分を守れるだけの警戒や準備を呼び掛けているのです。仮に再び地震が発生した時には、前回の教訓がある訳ですから、少なくともこれまで以上の準備ができているでしょう」とフジモトは語った。
震災から20年を経て、神戸市は急速に復興した。住宅、道路、線路、ビジネスセンターなどが再び建設され、神戸市の資料によれば、およそ16.3兆円の費用が費やされた。「しかし、精神的な面では神戸はまだ完全には復興していません。犠牲者の家族の多くが今もトラウマを抱えています」と広瀬朋義・神戸市危機管理監は語った。
災害から学ぶ
被災者の社会および経済的な回復の他に、日本にとって重要な優先事項となるのは同様の出来事を繰り返さないためにも震災から学ぶことだ。山谷えり子防災担当相も「この震災の経験と教訓をしっかりと継承し、安心して暮らせる社会の実現に全力を挙げる」と追悼式典で述べている。
神戸地震によって、日本では開発において災害リスクの減少を第一に考えるという新たな意識が生まれたと広瀬氏は指摘する。神戸の震災以降、全ての橋梁に地震の影響を抑えるためのゴム製緩衝装置が取り付けられた。同様に住宅や商業建造物にも耐震技術および耐震素材の使用が義務付けられた。
日本では災害、特に地震に関する研究も活発に行われている。神戸の震災以降、日本全国の地方自治体では緊急事態に備えた物流の手配や学校での災害教育などが進められてきた。
日本の建造物の耐震強度に関しても、2011年3月11日にマグニチュード9の地震が東北地方を襲った際に証明された。津波を研究する今村文彦・東北大学教授によると、東北地方の建造物の多くが地震に持ちこたえたが、津波によって崩壊したという。
地震からは逃れた日本は、実際には津波に対する心構えはあったものの、2011年の津波によって大きな損害を被った。「しかし、私たちは学び続けています。日本では普通、災害が起こる度に、新たな研究所が設立されています。こうして私たちは学び続けているのです」と今村氏は語った。
例えば、1923年に15万人の犠牲者を出した関東(東京およびその周辺)大震災の発生を受けて、東京大学に地震研究所(ERI)が設立された。巨大台風が上陸した後には京都大学に防災研究所が建てられた。また、東北の津波を受けて東北大学には災害科学国際研究所 (IRIDeS)が設立された。
神戸地震が日本の建築物の基準と質を変えたとすれば、東北地震は都市計画を変えたといえる。日本では2011年に、関係する行政機関の設立、物理的な再建に関する規則, 経済、都市計画、津波からの保護, 新たな地方開発などを定めた震災復興に関する17の法律が施行された。
これら法律の存在が復興庁が行なう全ての施策の強い法的根拠となり、住宅から2メートル以上の津波が襲った海岸地域からの立ち退きが行なわれた。
こうした取り組みは過去に津波の被害を受けたインドネシアのアチェやその他の地域では行われていない。2014年12月24日水曜日のコンパス紙によれば、インドネシアで津波に襲われた地域にも再び住民が戻っているが、都市計画に変化はなく、今後も災害の影響を受けやすい状況にあるという。
研究や予防は災害リスクの軽減において重要なものだが、技術上のミスの可能性から目を背けてはならないと今村氏は話す。津波を誘発する可能性がある地震が発生した場合、すぐに海岸から避難するといった社会的な教育が必要とされる。
Kompas, Minggu, 18 Januari 2015
20 TAHUN GEMPA KOBE: Jepang Terus Belajar dari Bencana
20 TAHUN GEMPA KOBE: Jepang Terus Belajar dari Bencana
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