2-min

2015年1月9日付コンパス紙社説「シャルリー・エブドの悲劇(Tragedi "Charlie Hebdo")」の翻訳です。1月8日にパリで起きたフランス週刊紙「シャルリー・エブド」銃撃事件について論じています。

社説:「シャルリー・エブド」の悲劇
コンパス(2015年1月9日)

非人道的犯罪がなぜこれほどまでに安易かつ身勝手に、罪の意識もなく行われ得るのだろうか。

この冒頭で私たちが提示した問いかけは、フランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」の編集部が昨日、武装した集団に襲撃された事件に関連したものだ。この3人が行なった襲撃によって、12人が死亡、重体を含めて11人が負傷した。

いかなる理由があろうとも、複数の犠牲者を出した今回の武装集団による襲撃は人道にもとる行為である。単に人道的価値観を損なったばかりではなく、むしろ捨て去ったと言える。

だからこそ、今回の武装集団による襲撃が発生するやすぐさま、国連の潘基文事務総長も含む世界各国の首脳、宗教指導者および様々な社会層から、憂慮、哀悼、非難、抗議といった反応やコメントがよせらたのだ。

今回の風刺紙社-辛辣、過激かつ容赦のない漫画を掲載することで知られ、読者に不快を与えることも少なからずあった-への武装集団による襲撃は、民主主義の根幹をなす言論および表現の自由に対する攻撃であるとみなす向きも少なくない。さらには、文明に対する攻撃であるとの意見も存在する。

もちろん、言論および表現の自由と挑発行為との境界はどこなのかという疑問も生じることだろう。なぜなら、文化、イデオロギー、人生観といった背景が理由となり、一方では民主主義的価値観の実現である言論の自由の表現形態であるとみなされても、他方では不愉快な挑発行為であるとみなされるためだ。

ジャーナリズムが民主主義のひとつの支柱であることに疑いはない。報道の自由なしに民主主義は存在しない。しかし、その自由に対する認識や理解は多くの国で異なっている。欧米諸国ではおそらく自由と言えば自由を意味するのだろう。一方で、インドネシアの私たちはそこに「責任」という言葉を加えることで、責任を伴う自由とする。

あらゆる議論や意見の相違を別にして、フランス当局が今回犠牲者を出した武装集団による襲撃の背景をフランス当局が直ちに公表することを望みたい。こうして全てを明らかにすることで、状況を混乱させ、無責任な行為を誘発させ得る様々な憶測の発生を食い止めることができる。

なぜなら、この種の事件は、フランスのフランソワ・オランド大統領がテロ行為と呼んでいるが、いかなる場所であっても起こり得る可能性をはらんでいるからだ。

Kompas, Jumat, 9 Januari 2015
Tajuk Rencana: Tragedi "Charlie Hebdo"


【関連記事】
「野蛮と文明-仏シャルリー・エブド紙襲撃事件」-インドネシア・レプブリカ紙社説(2015年1月9日) 【レプブリカ紙は1993年に創刊されたインドネシアのイスラーム系有力日刊紙】