インドネシアの中学3年歴史教科書「第16章 アジア・アフリカ会議(Konferensi Asia Afrika)」の翻訳です。教科書の出典はMatroji, Sejarah SMP untuk Kelas IX, Erlangga, 2004, pp.157-168.からです。また、記事後半では日本の中高歴史教科書からバンドン会議に関する記述も紹介しています。日イ両国の教科書のバンドン会議に関する記述を比較してみてください。
第2次世界大戦後、アジア・アフリカ地域では依然として多くの民族が独立を達成できずにいた。アジアでは、例えば、(イギリス植民地の)マレーシアやシンガポール、さらには当時は単一インドネシア共和国の一部でオランダに占領されていたイリアン・ジャヤなど、ヨーロッパ民族による植民地支配の名残りが見られた。アフリカの状況もアジアと大差はなかった。コンゴは依然としてベルギーの、アンゴラとモザンビークはポルトガル、アルジェリアはフランスの植民地支配下にあった。また、南アフリカでは黒人が先住民であるにもかかわらず、政府はヨーロッパ民族に支配されていた。
以下の点がアジア・アフリカ会議開催の基本となった。
バンドンでアジア・アフリカ会議の開催に先立って、コロンボ(スリランカ)とボゴール(インドネシア)で事前会合が開催された。

会議参加国
写真16-2 1955年4月18日、バンドンで開催されたアジア・アフリカ会議で掲揚される参加国国旗。
写真16-3 1955年4月18日、バンドンの「Sociteit Concordia」会館(現在の独立会館)でアジア・アフリカ会議の開催を宣言するインドネシアのスカルノ大統領。


【参考文献】
イ・ワヤン・バドリカ(石井和子監訳)『インドネシアの歴史‐インドネシア高校歴史教科書』(明石書店、2008年)。※同書の出典は今回の記事で紹介した中学歴史教科書を出版しているエルランガ社の2000年版高校歴史教科書。記述の大枠に大差はないが、バンドン会議に関しては中学校用教科書がより詳細な内容となっている。
中学校教科書『新しい社会 歴史』(東京書籍、2014年)

緊張の緩和と進展 冷戦下の国際的な緊張は、1950年半ばからしだいに緩和していきました。植民地支配から独立した国々の多くは、1955年(昭和30)年のアジア・アフリカ会議【注1】に見られるように、平和共存をうったえました。
【注1】アジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、インドなどの提案で、29カ国が参加してインドネシアのバンドンで開かれました。
高校教科書『世界史B』(東京書籍、2014年)

【関連記事】
★スカルノとは誰か?-文豪プラムディヤが論じるインドネシア初代大統領の「功罪」(タイム誌1999年8月23日号)
第16章 アジア・アフリカ会議
なぜこの章を学ぶのか?
自由で積極的な外交政策のひとつが世界平和創出の一翼を担うことだ。アジア・アフリカ会議の開催国となることで世界平和の創出におけるインドネシア民族の役割が現実のものとなった。この会議でいかなる成果が生まれたかを以下にみてみよう。
★ ★ ★
アジア・アフリカ地域の諸民族は、ともにヨーロッパ民族による植民地支配の犠牲者となるなど、多くの歴史的類似性を持つ。これら歴史の類似性から、自国の現状の改善や変革をより効果的に勝ち取るべく連帯を望む共通意識が生まれた。こうした点が示されたのが、1955年にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議だった。
A 背景
第2次世界大戦後、アジア・アフリカ地域では依然として多くの民族が独立を達成できずにいた。アジアでは、例えば、(イギリス植民地の)マレーシアやシンガポール、さらには当時は単一インドネシア共和国の一部でオランダに占領されていたイリアン・ジャヤなど、ヨーロッパ民族による植民地支配の名残りが見られた。アフリカの状況もアジアと大差はなかった。コンゴは依然としてベルギーの、アンゴラとモザンビークはポルトガル、アルジェリアはフランスの植民地支配下にあった。また、南アフリカでは黒人が先住民であるにもかかわらず、政府はヨーロッパ民族に支配されていた。
これらの植民地において、先住民たちは貧困や不自由の中で暮らし、教育の機会も与えられず、卑屈な精神に満ちていた。彼らは自国の大地、水、豊かな自然の正当な所有者であるにもかかわらず、政治参加や経済活動への関与は認められていなかった。他方で、すでに独立を果たしていたアジア諸国でも連帯に向けた機運は依然としてみられなかった。例えば、中華人民共和国は金門島の領有権を巡って台湾と争い、インドはカシミール地方の帰属をめぐってパキスタンと、北朝鮮は国境を巡って韓国と争っていた。これらの紛争が暴力や兵器の度重なる使用を伴うものとなった。対立する双方ともに自制がきかなかったことためだ。こうした状況にロシアやアメリカ合衆国などの大国が関与することで、問題の解決はさらに複雑なものとなった。
国際連合(国連)は国家間紛争の終結を期待された組織であったが、多くの場合において問題の解決には及ばなかった。紛争の平和的な解決を求める国連安全保障理事会の呼びかけは対立する国々にないがしろにされる場合がほとんどだった。
他方で、世界はロシアとアメリカという二大国間の争いに巻き込まれていった。この2つの陣営は自らの目的を達するために近代兵器の開発に動いた。加えて、敵対する国々に対する共同歩調をとるための軍事同盟も結成された。これらの同盟は自らの植民地における民族主義運動の弾圧にも利用された。結果として、植民地支配下のアジア・アフリカ地域における独立闘争はたびたび頓挫した。
これらの出来事によって、アジア・アフリカの諸民族は彼らの共通の問題を克服するためには連帯が必要であることに気が付いた。同時に、アジア・アフリカの諸民族は同様の運命を辿っているとの認識も生まれた。
B アジア・アフリカ会議開催の基本原則
以下の点がアジア・アフリカ会議開催の基本となった。
・アジアとアフリカの位置は同様の地理的特性を持ち、また接している。
・両地域は非常に良く似た類似点を持つ。子孫的な関係 だけではなく、歴史や宗教的な結びつきがある。
・両地域はそれ以上に同様の運命を持つ。すなわち、ヨーロッパ身族による植民地支配の犠牲者という運命である。この植民地支配によって、アジア・アフリカ地域は政治的独立を失い、社会及び経済面で困窮した生活に苦しんだだけではなく、文化的価値観や基盤も阻害された。
・アジア・アフリカ地域は独立後、共に克服すべき様々な問題に直面した。アジア・アフリカ諸国は開発、経済、社会、教育、そして文化的な問題を克服するためにも協力の水準を上げる必要があった。
アジア・アフリカ民族の協力は第二次世界大戦前、ヨーロッパで学んでいたアジア・アフリカ地域の留学生グループの活動家らによって行われたことがあった。1927年1月15日にはブリュッセル(ベルギー)でアジアの青年らが「反帝国主義反植民地圧政連盟」を開催した。この会議ではアジア・アフリカ出身の運動指導者たちが植民地支配および圧政に立ちむかむべく一堂に会した。会議には当時オランダで学んでいたモハマッド・ハッタ、アリ・サストロアミジョヨ、ナジル・スタン・パムンチャクらがインドネシア留学生代表として参加した。
1937年9月18日、アラブ諸国は共通の利益の確保を目指した汎アラブ主義を構築するために連帯するべく、ブルダンに集結した。また、1947年4月2日にはインドのスリ・パンディット・ジャワハルラール・ネルー首相はニューデリーで「アジア域内関係会議(Inter Asia Relation Conference)」を開催した。この会議では複数のアジア諸国が発展と繁栄を目指して植民地支配に立ち向かうための協力を結んだ。会議にはハジ・アグス・サリムがインドネシア代表として出席した。インドネシアの再植民地化を狙うオランダに対して立ち向かうべくアジア諸国の連帯が決議された。
C 事前会合
バンドンでアジア・アフリカ会議の開催に先立って、コロンボ(スリランカ)とボゴール(インドネシア)で事前会合が開催された。

写真16-1 アジア・アフリカ会議の会合の合間に意見交換を行なうインドのネルー首相とビルマのウー・ヌ首相。
コロンボ会議
アジア・アフリカ会議を開催する構想は1954年4月28日から5月2日にかけてスリランカのコロンボで開催されたコロンボ会議で生まれた。この会議には、アリ・サストロアミジョヨ首相(インドネシア)、シュリ・バンティット・ジャワーハルラール・ネルー首相(インド)、モハマッド・アリ・ジナ首相(パキスタン)、ジョン・コタラーワナ首相(スリランカ)、ウー・ヌ首相(ビルマ、現ミャンマー)という5人の政府首脳が参加した。コロンボ会議の目的はベトナム問題を議論することにあった。これは1954年のジュネーブ会議で同問題を議論する際の準備としてのものだった。
コロンボ会議では、アリ・サストロアミジョヨ首相がアジア・アフリカ会議の開催を提案した。この提案はその他の4名の首相から好意的に受け入れられた。その後、この5名の首相らはアジア・アフリカ会議開催の第一歩として、事前会合を開いた。この会議は五カ国会議として知られている。
コロンボ会議の成果は以下の通り。
・インドシナ半島のフランス植民地支配からの独立
・チュニジアとモロッコの独立要求
・アジア・アフリカ会議の開催およびインドネシアを主催国として選出
ボゴールでの五カ国会議
アジア・アフリカ会議開催に向けて、1958年12月28日、ボゴールで事前会議が開催された。この会議は五カ国会議として知られており、スポンサーとなる以下の五カ国の首相が参加した。
・インドネシア(代表はアリ・サストロアミジョヨ首相)
・インド(ジャワーハルラール・ネルー首相)
・パキスタン(モハマッド・アリ・ジナ首相)
・ビルマ(ウー・ヌ首相)
・スリランカ(ジョン・コタラーワナ首相)
ボゴールでの五カ国会議では例えば以下のような決定がまとめられた。
・アジア・アフリカ会議は1955年4月18日から24日にかけて開催される
・アジア・アフリカ会議にはアジアとアフリカから30カ国を招待する
・第1回アジア・アフリカ会議の行事日程および主要議題の策定
上記の決定の他に、五カ国会議では当時はまだオランダ領だったイリアン・ジャヤ地域に関するインドネシアの要求を支持する決定もなされた。
D アジア・アフリカ会議
会議参加国
アジア・アフリカ会議は1955年4月18日、バンドンの独立会館でスカルノ大統領によって開会が宣言された。会議には招待を受けた30カ国中29カ国が参加した。中部アフリカ(ローデシア)は国内で政変が発生したため参加を見送った。当時、黒人である中部アフリカの先住民は、ヨーロッパ民族の支配者が行なう(南アフリカのアパルトヘイトのような)皮膚の色の違いを理由とした人種差別および待遇や権利の違いに立ち向かっていた。

アジア・アフリカ会議に参加した29カ国は以下の通り。
1.インドネシア、2.インド、3.ビルマ(現ミャンマー)、4.パキスタン、5.スリランカ、6.アフガニスタン、7.カンボジア、8.中国、9.エジプト、10.エチオピア、11.ガーナ(ゴールドコースト)、12.イラン、13.イラク、14.日本、15.ヨルダン、16.ラオス、17.レバノン、18.リベリア、19.リビア、20.ネパール、21.フィリピン、22.サウジアラビア、23.スーダン、24.シリア、25.タイ、26.トルコ、27.北ベトナム、28.南ベトナム、29.イエメン
アジア・アフリカ会議の目的
1.共通利益の保持を目的としたアジア・アフリカ諸国の関係、友好、協力の進展
2.アジア・アフリカ諸国の社会、経済、文化面における協力
3.主権の確保、人種差別や植民地支配の撤廃など、アジア・アフリカ諸国に共通する重要な諸問題の解決
4.世界におけるアジア・アフリカ諸国の役割の強化および世界平和への積極的な貢献
会議の進行
アジア・アフリカ会議はアジア23か国とアフリカ6か国が参加した。この会議では政治方針が異なる3つのグループが存在した。

1.親欧米グループ。フィリピン、タイ、パキスタン、イラン、トルコなど。
2.共産主義的グループ。中国、北ベトナムなど。
3.中立中道グループ。インド、ビルマ(ミャンマー)、スリランカ、インドネシアなど。
一方、その他の国々は方針を明らかにしなかった。参加各国が各国間の相違点よりも共通点をより重要視したことで会議は順調に進行した。
このバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では、インドネシア側の参加者が重要な役割を担った。アリ・サストロアミジョヨは会議議長、ルスラン・アブドゥル・ガニは事務局長、ムハンマド・ヤミンは文化委員長、Prof. Ir. Roosenoは経済委員長を務めた。
会議の成果
アジア・アフリカ会議では以下の決定がなされた。
写真16-4 1955年4月18日から24日にかけてバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議の様子。会議ではインドネシアのアリ・サストロアミジョヨ首相が議長、ルスラン・アブドゥルガニが事務局長に選出された。

1.経済協力
・相互主義と相互理解の原則に基づき、各国の主権を尊重した経済協力を行なう
・専門家、訓練設備、試験プロジェクト、研究・訓練施設の設置などの技術支援を相互に行う。
・アジア・アフリカ諸国の開発を目的として、国際銀行からのより多くの資金分配と経済開発に関連した国連特別機関の設置を直ちに行なう。
・アジア・アフリカ地域の商品貿易を安定したものにする。
2.文化協力
・文化面での協力を確立することで相互理解を深める。
・相互に利益をもたらす各国の文化に関する情報を交換する。
3.基本的人権
・世界人権宣言に記載された通りの基本的人権諸原則を完全に支持する。
・人種差別を非難し、その根絶に努める。
4.植民地問題
・植民地主義はいかなる形態であっても直ちに終止符を打つべき犯罪である。
・他の諸民族の制服、他国による支配および搾取は基本的人権の侵害である。
・アルジェリア、モロッコ、チュニジアなどの依然として植民地支配を受けている国の国民たちが自らの運命を決定できるように独立に向けた闘争を支持する。
5.その他の諸問題
・パレスチナ民族の自国領土に対する権利を完全に支持し、問題の平和的な解決を呼び掛ける。
・西イリアン問題におけるインドネシアの立場を支持する。
・アデン問題においてイエメンを支持する。
6.国際平和および国際協力の推進
・日本、カンボジア、リビア、ネパール、スリランカ、ベトナム、ヨルダンなど、参加国となる条件を満たした国々の国連加入を支持する。
・武器の制限、制御、削減をあらゆる方面に要請する。
政治面において、バンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では平和十原則の制定に成功した。これは「バンドン十原則」として知られている。
バンドン十原則
a. 国連憲章に記載された基本的人権を尊重する
b. あらゆる民族の主権、領土保全を尊重する。
c. 大小を問わず、あらゆる民族の平等を認める。
d. 他国の内政問題に干渉および介入しない。
e. 国連憲章に則り、個人または集団で自国を守るためのすべての民族の権利を尊重する。
f. 他国に対して圧力を加えない。
g. 他国の独立と領土保全に対して、武力の行使または脅威を加えない。
h. 国連憲章に則り、国際紛争を平和的に解決する。
i. 共通の利益のために協力する。
j. 国際法と義務を尊重する。
アジア・アフリカ会議の影響
アジア・アフリカ会議が閉幕した時には多くの国がまだ独立を果たしていなかった。植民地支配下にあった国々では独立および完全なる主権国家としての地位を求める闘いが開始された。それ以外にも、アジア・アフリカ会議は国際社会で大きな影響を持っていたばかりか、「非同盟運動」開始の起爆剤となった。

写真16-5 1955年4月18日、バンドン・テガレガ広場で学生の体操を鑑賞するアジア・アフリカ会議参加者たち。最前列にはエジプトのナセル首相とインドのネルー首相の姿が見える。
アジア・アフリカ会議閉幕後、アジア・アフリカ諸国の関係はさらに進展した。そうした関係はとりわけ以下のような会議によって実現された。
a. アジア・アフリカ大学生会議
b. アジア・アフリカジャーナリスト会議
c. アジア・アフリカ女性会議
d. アジア・アフリカ友情会議
e. アジア・アフリカイスラム会議
f. アジア・アフリカ閣僚会議
g. アジア・アフリカ映画祭
h. アジア・アフリカ作家会議

学習活動
下記の空欄にあるようにアジア・アフリカ会議の背景、目的、基本構想、成果、影響についてまとめなさい。(訳注:上記写真参照)
・「バンドン十原則」に代表されるアジア・アフリカ会議の精神は、外国からの植民地支配から脱却する上で、アジア・アフリカ諸国にインスピレーションを与えた。アジア・アフリカ会議の開催からすでに半世紀が経ち、国際情勢も急速に変化した。時の経過に合わせて、私たちはグローバル化の時代を迎えた。物理的な植民地支配は消え失せ、どの国も互いに関係し合い、国境という概念はあいまいなものとなった。アジア・アフリカ会議50周年を目前に控え、「バンドン十原則」に記載されたアジア・アフリカ会議の精神は今もなお、発展途上国が成長を続ける現状に適用し得るものなのだろうか。
上記のトピックに関する簡潔な文章を別紙にまとめなさい。文章の題名、長さ、形式に関しては自由に定めてよい。書籍、雑誌、新聞、インターネットなど様々な情報源から情報を集めなさい。図書館やインターネットカフェで情報収集を行ったり、場合によっては適切だと思われる人物に質問しても構わない。創造性を働かせ、着想を深めることで、自由に文章をまとめてみよう!
章末の学習
A. 以下の選択肢から最も適当なものをひとつ選びなさい。
1.アジア・アフリカ会議開催の背景として不適切なものは?
a. 西洋民族が訪れる前のアジア・アフリカ民族の繁栄
b. 西側陣営に対抗する上で勢力の強化。
c. アジアとアフリカ大陸の地理的近接性。
d. 植民地支配を受けたという共通の歴史。
2.アジア・アフリカ会議開催の目的とは?
a. 植民地支配者に立ち向かうためにアジア・アフリカ諸民族のやる気を奮い立たせる。
b. アジア・アフリカの非独立諸国を支援する。
c. アジア・アフリカをひとつの連邦国家としてまとめる。
d. 西側陣営と東側陣営の緊張を緩和する。
3.アジア・アフリカ会議に招待されたが、参加しなかった国は?
a. ガーナ
b. ヨルダン
c. エチオピア
d. ローデシア
4.アジア・アフリカ会議開催が提案された会議の開催場所は?
a. ボゴール
b. コロンボ
c. ニューデリー
d. イスタンブール
5.アジア・アフリカ会議の開催を主導した国々は?
a. インドネシア、マレーシア、シンガポール、スリランカ、インド
b. インドネシア、スリランカ、インド、パキスタン、ビルマ
c. ビルマ、マレーシア、タイ、インド、インドネシア
d. インドネシア、ビルマ、インド、パキスタン、アフガニスタン
6.アジア・アフリカ会議がバンドンで開催された時のインドネシア首相は?
a. アリ・サストロアミジョヨ
b. ナシール
c. ブルハヌディン・ハラハップ
d. スキマン
7.アジア・アフリカ会議の成功によって誕生した国際的な協力及び連帯フォーラムのひとつは?
a. AFTA
b. NAFTA
c. EEC
d. 非同盟運動
8.アジア・アフリカ会議の議長に選出された人物は?
a. ガマル・アブドゥル・ナセル
b. ルスラン・アブドゥル・ガニ
c. ジャワハルラール・ネルー
d. アリ・サストロアミジョヨ
9.1954年5月に開催されたコロンボ会議で取り上げられた議題は?
a. ベトナム問題
b. インドシナ問題
c. チュニジア問題
d. モロッコ問題
10.アジア・アフリカ会議の開催が与えた影響のひとつは?
a. 基本的人権の尊重
b. 世界的緊張の緩和
c. 南アフリカのアパルトヘイト廃止
d. インドネシアとマレーシア関係の正常化
B. 以下の問いに簡潔に答えなさい。
1.バンドンにおけるアジア・アフリカ会議開催以前の世界的な政治状況とは?
2.招待国のひとつであるローデシアはなぜアジア・アフリカ会議に参加しなかったのか?
3.国連は国家間紛争の解決が期待される世界的機関であるが、往々にして紛争の解決が失敗に終わるのはなぜか?
4.アジア・アフリカ会議開催後の国連フォーラムにおけるアジア・アフリカ諸国の影響力に変化はあったのか?
5.アジア・アフリカ会議でインドネシアが得た恩恵とは何か?
【参考文献】
イ・ワヤン・バドリカ(石井和子監訳)『インドネシアの歴史‐インドネシア高校歴史教科書』(明石書店、2008年)。※同書の出典は今回の記事で紹介した中学歴史教科書を出版しているエルランガ社の2000年版高校歴史教科書。記述の大枠に大差はないが、バンドン会議に関しては中学校用教科書がより詳細な内容となっている。
★ ★ 日本の教科書の場合 ★ ★
中学校教科書『新しい社会 歴史』(東京書籍、2014年)

写真の赤枠は引用部分。
緊張の緩和と進展 冷戦下の国際的な緊張は、1950年半ばからしだいに緩和していきました。植民地支配から独立した国々の多くは、1955年(昭和30)年のアジア・アフリカ会議【注1】に見られるように、平和共存をうったえました。
【注1】アジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、インドなどの提案で、29カ国が参加してインドネシアのバンドンで開かれました。
高校教科書『詳説世界史』(山川出版社、2014年)

【第三世界の連携】(384頁)
アジア・アフリカの新興独立国のあいだには、東西対立にまきこまれることへの危機感が高まり、東西陣営のどちらにも属さない第三勢力を形成しようとする潮流が生まれた。
1954年、インドなど南アジア諸国の首脳がコロンボに集まり、アジア・アフリカ諸国会議の開催、核実験停止を提案し、また中国の周恩来首相はインドのネルー首相と会談して平和五原則【注1】を発表した。翌55年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ29カ国の代表が参加した会議(アジア=アフリカ会議〈バンドン会議〉)が開かれ、平和共存・反植民地主義をうたった十原則が採択された。また、61年ユーゴスラヴィアなどの呼びかけで、ベオグラードに25カ国が参加して第1回非同盟諸国首脳会議が開催され、平和共存、民族解放の支援、植民地主義の打破をめざして共同歩調をとることを誓った【注2】。
【注1】五原則とは、領土保全と主権の尊重、不侵略、内政不干渉、平等と互恵、平和共存である。
【注2】このような非同盟諸国の台頭に対応して、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの発展途上国を「第三世界」と呼ぶようになった。
高校教科書『世界史B』(東京書籍、2014年)
第19章 国民国家体制と東西の対立
1.アメリカ合衆国の覇権と冷戦の展開
2.アジア・アフリカ諸国の独立と「第三勢力」
【第三勢力の形成】(380頁)
第二次世界大戦後、民族の自治や国家の樹立を求める民族主義運動を背景に、植民地であった地域が独立を達成した。新独立国のなかには、インドシナ戦争や朝鮮戦争のような「熱戦」の末に分断国家として独立し、東西対立と深い関係をもつ国もあったが、東西両陣営のどちらにも属さない第三勢力の形成をめざした国もあった。
1954年、中国の周恩来首相とインドのネルー首相が会談し、領土と主権の相互尊重、内政不干渉、平和共存などからなる平和五原則を発表した。翌55年に、インドネシアのバンドンで日本を含む29カ国が参加したアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催された【注1】。この会議は、平和五原則にもとづく平和十原則を採択し、アジア・アフリカ諸国の反植民地主義と平和共存、民族独立を求める民族運動に大きな影響を及ぼした。(後略)
【1】バンドン会議を主導したのは、エジプトのナセル大統領、中国の周恩来首相、インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領である。

写真(381頁):バンドンでのアジア=アフリカ(A・A)会議 このアジア・アフリカ諸国の首脳会議で、人権の尊重や国家間の平等などをうたった「平和十原則」が確認された。
インドネシア人の本音@honnesia
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2015/04/18 12:01:41
【関連記事】
★スカルノとは誰か?-文豪プラムディヤが論じるインドネシア初代大統領の「功罪」(タイム誌1999年8月23日号)
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